文化庁の指針*1に関して、おおよその話は前のブログ記事に書きました。
読んでいない人もいると思いますので、簡単におさらいをしておきます。
文化庁は漢字に関して、以下の説明のような指針を出しました。
漢字の手書き文字について、「はねる」「とめる」など細かい違いで正誤はなく、多様な漢字の形が認められていることを説明する*2
語弊があるかもしれませんが、ごく簡単に言うと「漢字の『とめ』『はね』などを細かく見る必要はない」というものです。漢字の「とめ」「はね」を細かく見る採点は、教師が勝手に作り上げたもので、どこにも根拠がありません。漢字には多様な形があり、どれも正しいものなのです。
では、前回の記事から2年も経ってしまいましたが、このことについて書き損ねた部分や、追加できるところを述べていこうと思います。
指針の2つのベクトル
さて、文化庁指針には2つのベクトル(方向性)があると考えています。ブログの①では分けずに考えましたが、今回は2つに分けて考えようと思います。
ひとつは、漢字の伝統を守る、というベクトルです。ブログの①で説明したことの多くのことがこれにあたると考えています。漢字は、伝統的に複数の形が認められてきていたのですが、教員はそのことを理解せず指導してしまっている。ということがありました。
たとえば、上の短い「天」や、はねる「木」は、伝統的に見て一般的な形です。これまで一般的だったものを不正解として扱うのはやめるべきだ。こういう方向性があります。
もうひとつのベクトルは、人間が書いた文字は絶対同じ形にならないので、重箱の隅をつつくのは妥当ではない、というベクトルです。
文字を書くとき、脳内にあるイメージを手やペンを通して出力(アウトプット)しますが、この出力は、脳内での理解と完全には一致しません。
たとえば皆さんは「正方形」という概念を理解していると思います。では、ペンを渡され「正方形を書いてください」と言われて、正確な正方形が書けるでしょうか。
これと全く同じことが文字でも起こります。脳内では個々の文字を理解していたとしても、手でうまく出力できないのです。これには個人差もありますし、書くスピードなどの影響もあると思います。
この、単なる出力形の細かい差異を取り上げて採点することに、どれほど意味があるのか、ということです。
さて、今回の記事では、「人間が書く文字は頭の中の文字と同じ形にならない」ということを中心に話を進めたいと思います。
子供の書く文字はどうして汚いのか
特に初等教育において、「厳しく指導しなければ文字を書けなくなる」「小学生の書いてくる字はめちゃめちゃで読めたものではないから、指導が必要」などといった意見も根強くあると思います。
まず、子供が書く字は往々にして汚いと思います。「全児童フォント(フェルトペン)」というフォントがありますが、これを使って文を書いてみました。このフォントは実際の小学1年生が書いた文字で作られています。
お世辞にも読みやすいとは言えません。ではなぜ、子供の字は汚いのでしょうか。これは、「ペン慣れ」していないというのがひとつの原因ではないか、と考えています。
道具を使う際、初めから上手に使う人はいません。子供はまだペンや鉛筆で文字を書きはじめてからそれほど時間が経っていませんので、当然、ペンという道具には慣れていません。利き手でない手では字を上手に書けないのと同じ原理です。
つまり、子供の書く字は、いくら上手に書こうと思ってもペン慣れをしていないので、脳内にある形と、出力された形が違うわけです。
子供が漢字を学習するとき、横に手本の字があるはずです。しかし、ペン慣れしていない状態だと、いくら上手な手本を見て書いても、いくら慎重に手を動かしても、慣れていないので書けないのです。
これは、字を間違って書いていることとは全く質が異なります。初等教育では、正しいと思って書いた字を直されて学習意欲を削ぐよりも、出来ていることを評価すべきではないかと思うのです。漢字を嫌いにさせるよりはいいはずです。
書道の世界ではこういう話があります。
「天才少年ピアニスト」はいるが、「天才少年書家」というのは聞いたことがない。なぜかというと、書というものは年齢とともに上達するものであって、生まれながらにして上手な人はだれ一人いないからだ。
持つものが鉛筆であっても、同じなのではないでしょうか。硬筆も「筆」の一種で、書かれた文字はすべて「書」です。
「とめ・はね・はらい」を守れば美しい字が書けるのか
また、指針への反応などを見ていると、「『とめ』『はね』『はらい』をきちんとしないと、美しい文字が書けない」のような意見が散見されました。
まず、踏まえておきたいのは「漢字が正しいかどうか」と「漢字の丁寧さ・美しさ」はまったく別の観点であるということです。ブログ①の記事でも述べましたが、字のバランスが悪いからと言って、その字が誤りであるとは言えません。また、今回の指針が「乱雑に書いてもよい」と言っているものでもありません。
漢字テストなど、正誤の判定が必要なときにおいては「とめ」「はね」「はらい」など細部に拘泥する必要はないということを言っています。
たとえば、ここに4つの「文字」という字があります。上段は、「厳しい漢字指導での正解」を想定して書きました。下段は、それにはあてはまらないと思われる書き方です。(今回の指針の観点から言えば、上の4つはすべて正解です)
この4つのうち、上段の2つの「文字」が正しいから美しい。と考える人はいないと思います。右側のどちらかを美しいと感じるのではないでしょうか。
要するに、「とめ」「はね」「はらい」など文字の正誤を追求しても、美しい字は書けません。文字の正誤と美しさは全く別の観点なのです。ですから、この指針を見て「子供の字が汚くなる」などと解釈するのは、お門違いでしょう。
行書と楷書
「糸へんを3点で書いたり、木をはねたりするのは、行書の書き方であって楷書ではない」のような意見も見受けられました。果たしてそうでしょうか。
「楷書で記入してください」など、よく見る言葉ではありますが、辞書を見て、「楷書」とはなにか、「行書」とは何かというのをはっきりさせましょう。
かいしょ【楷書】
漢字の書体の一つ。点画を略したり続けたりしないで書くもの。ぎょうしょ【行書】
漢字の書体の一つ。楷書の書き方を少しくずしたもの。*3
ごく簡単に説明すると、楷書で2画のところを筆やペンを空中に上げず一筆(いっぴつ)で書いていると行書です。一方、画を続けず、1画1画はっきりと書いてあれば楷書といえます。他にも行書には、画が柔らかであったり曲げる画に丸みがあるなどの特徴があります。
糸へんを3点で書く書き方も、書き方は異なるものの1画1画がはっきりと書いてあるので、楷書の書き方であると言えます。また、はらう部分をとめたり、とめる部分をはねたりする程度のものも楷書の範疇を出ません。(右画像:黒須雪子(2009)『新書源』二玄社)
ですから、「行書の書き方であって楷書ではない」というのは誤りといえます。
さらに、楷書の書き方であるということは、中学校の書写の教科書でも述べられています。
- 「季節」が右上に書かれている画像:角井博ほか(2015)『中学書写1』教育出版(2011年検定済)
- 「条約」と書かれている画像:塚本宏ほか(2015)『中学校書写 一年』大日本図書(2011年検定済)
- 「天」「戸」が右上に書かれている画像:中洌正尭ほか(2015)『中学生の書写 一年』三省堂(2011年検定済)
- 「戸」「比」が右上に書かれている画像:栗原蘆水ほか(2015)『新しい書写 一年用』東京書籍(2011年検定済)
どこまでが楷書か
さて、ではここで問題です。下の画像の「紅」を楷書と行書に分けてみてください。
どうでしょうか。うまく分けられましたか?
楷書にしか見えないもの・行書にしか見えないものもありますが、中間的で判断に迷うものもあったのではないでしょうか。
毛筆であれば、楷書か行書かは筆法である程度見分けられます。毛筆の楷書と行書を習えば、漢数字の「一」が書いてあるだけでもそれが楷書っぽいとか行書っぽいとかわかるようになります。
ですが、普段文字を書く中でそこまで意識はされません。そうなると、1画1画がはっきりしているものが楷書でそうでないものが行書という判断になるわけですが、中間的なものもあり、そう簡単にはいきません。
実は、上図のように楷書と行書は連続的で、はっきり分けることはかなり難しいことなのです。
前記事で述べたように、今回の指針の考え方は、漢字の骨組みが過不足なく読み取れる場合は、誤りとしない。というものです。「楷書の範疇」となっている部分は、行書的なものもありますが、1画ずつ漢字の骨組みが読み取ることができます。ということは、それらは楷書として誤りであるとは言えません。
指針では、行書のような書き方について以下のように記述がされています。
まとめ
まだ幼い子供は、文字を上手に書けません。頭の中で正しい字を認識していても、うまく出力できません。その一方で、ペンに慣れてくると、早く書こうとする志向が生まれます。そうすると、自然に文字の形はくずれ、行書に近い形になります。
そのどちらもが、出力したときに表れた些細な差でしかありません。字体(骨組み)に誤りがなければ、個々の発達に応じて認めるべきでしょう。
行き過ぎた漢字指導は、漢字学習の本質を見失わせます。漢字を覚えることは、漢字の用法・意味・熟語などを学んで、社会での文字の読み書きに耐えうるようにするためのものでしょう。決して「女」の「ノ」は、上に出るのか、出ないのかを覚えさせるものではないはずです。